技術の発展とそれを受けたメディア・社会の変化により、人々の感情がどのようにハックされ、どのような影響を受けているのかを明らかにしようとする連載シリーズ「感情ハック」。第一弾では、感情資本主義社会=個人の感情のマネジメントが企業の論理に取り込まれ、感情が資本化している現代社会について研究されている、大阪大学の山田陽子先生にお話をうかがいます。
前編では、主に労働分野における資本主義の影響について取り上げました。後編では、「推し活」や「恋愛・結婚」といった私的な領域への影響について解説いただきます。
滝口:労働での自己実現がうまくいかなかった場合、ほかの領域でそれが実現できれば良い気もするのですが、労働のほかにアイデンティティやつながりを形成できる場(ギデンズの言う、伝統的な社会から「脱埋め込み」された後の「再埋め込み先」)は現代社会に存在するのでしょうか。
山田先生:率直に言って、今の日本社会では、そうした場を見つけるのはなかなか難しくなっています。もともと職業集団というのは、血縁や地縁とは異なる社会参画の方法として有効でした。日本で言えば、「社縁」と言う言葉もあるように、日本型雇用慣行により従業員とその家族の生活を会社が丸抱えしてきた経緯もあります。ですが、近年は、雇用形態も多様化しており、働く人を取り巻く環境も終身雇用型のコミュニティから、プロジェクト単位の一時的で流動的なものへと変わってきています。労働を介した自己実現や社会参加が相変わらず推奨される一方で、実際には様々な理由で難しくなっているのではないでしょうか。そうした中で、近年、一時的な「再埋め込み」のかたちとして推し活や趣味縁が前にでてきているように思います。
十河:推し活には、自己実現の手段としての側面もあるんですね。
山田先生:推し活というのは、対象となるものを共に応援し消費することを通して誰かと・何かと結びつく行為です。これまでの消費社会論では、消費はまやかしだとか、本物ではないものに夢中になっているだけだとみなされることがありました。しかし、推し活によって生きがいや集団内での役割が生まれたり、コミュニティの中に居場所ができたりもします。そう考えると、「消費=まがいもの」という捉え方自体が時代に合わなくなってきている面もあるのだと思います。
十河:私自身、推し活をしているので、その気持ちはとてもわかります。推し活で得られる感動や幸福感は、決して偽物ではないと感じますね。
山田先生:そうですね。推し活だけでなく、映画や旅行、贈り物やカウンセリングサービスなど、商品の中に人の感情の変化や自己変容があらかじめ織り込まれているものを、社会学者のエヴァ・イルーズは「エモディティ(感情商品)」と呼んでいます。エモディティは、消費者が消費を遂行する瞬間=感情変容や自己変容が生じる瞬間に、完成する商品群です。
エモディティによって生まれる感情は、当人にとってリアルなものであることは確かです。ただ、最近では推しへの課金額が“愛の大きさ”の印となり、際限なくお金や時間、労力を投じるようなことも起こっています。そうした状況を見ると、人の感情が資本主義に巻き込まれ、そこから切り離しがたくなっていること、市場への依存が生活のあらゆる領域へと拡張されていることが明らかですね。イルーズは、資本主義が人々の感情や人間関係を巻き込むことによって生じた最大のパラドクスは、消費を通して生起する感情がニセモノではなく本物として経験されることだと看破しています。現代人の感情生起や社会性が消費を介して現れる時、そこでの消費は単なる娯楽や快楽と片付けられないようなリアリティや切実さをもって迫ってくるのではないでしょうか。
滝口:そう考えていくと、恋愛や婚活などの人間関係でも、同じようなことが起きている気がします。
山田先生:そうですね。たとえばマッチングアプリなど、スペックや条件によって相手を効率的に探せるシステムが普及しましたが、イルーズはテクノ・エモディティ論の中で、現代社会では出会いと社会性のインフラに破壊的イノベーションが起きていると述べています。そして、人々を結び付ける技術の革新とそこから派生する人々の実際の行動パターンと、従来型のロマンティック・ラブ・イデオロギー(恋愛の相手は自分で選ぶ、恋愛の先には結婚がある、恋愛結婚後は一生添い遂げる、それを良しとする考え方)との間の齟齬や乖離により、混乱が生じていると言います。 というのも、効率化が進むと、「運命的な出会い」や「この人でなければならない」という偶然性や物語性が希薄になり、お互いの代替可能性が暴露されてしまいます。また、条件や相性が合わないと思えばすぐに関係から撤退できる環境があるので、「誰も選ばない」「誰とも深い関係を築かない」という形で選択の自由を発揮することも可能です。ウェブ上の自分のプロフィールと顔写真を完璧に整え、それが評価されることで自足し、結果、誰とも結びつかないケースもあるとか。
つまり、一方向的な「評価」が大量になされる一方で、相互に「承認」しあうような関係性が生じにくくなっています。これらは、結果として、結婚しない・できないことにつながります。
滝口:合理的であろうとすることで、かえって非合理を起こしているわけですね。
山田先生:最近、結婚相談所で出会った人たちが、交際開始後まもなく旅行に行き、二人だけの想い出づくりをすることで、お互いの唯一性や代替不可能性、出会いの物語性を急ごしらえするという話も耳にしました。サービスを通して効率的に出会いたいけれど、「条件や打算で選んだ」とドライになり切れるわけでもなく、依然として恋愛や結婚に物語性を求め、自分たちで大急ぎで補填している。実際の行動と理想との間のギャップを覆い隠すエピソードの一例として、面白いと思いました。
十河:「推しに尽くしすぎてしまう」とか「効率的に恋愛を進めようとする」といった今のお話を聞いていると、もはや仕事みたいだなと感じます。推し活や恋愛のような、本来ありのままの感情を重視するはずの私的な領域が市場の論理に巻き込まれることで、ある種「仕事に近づいている」ともいえそうですね。
十河:これまでお話を伺ってきて、もともとは日常生活の中の自然な営みであったはずの人間の感情が、今ではあらゆる形で資本主義の文脈に取り込まれていて、その影響は働き方だけでなく人間関係や推し活などの私的な領域にまで広がっていることがよくわかりました。その背景には「自己実現せねばならない」「自分らしさがなければならない」といった考え方があるように感じるのですが、先生はどうお考えになりますか。
山田先生:確かにそうですね。社会学者レクヴィッツは、現代を「独自性の社会」とみなし、特別さや唯一無二性が期待され、肯定的に評価される時代であるといいます。個々人のみならず集団やモノやネットワークを含めて、この社会にはあらゆるものに「独自性」を生み出そうとする構造と実践があります。裏返すと、独自になりえないもの、それを望まないとか許されないものは、無価値なものとして切って捨てられる。こうした独自化と分極化が現代社会の特徴の一つです。 実際には、階層ほか様々な社会的制約があり、全ての人が独自性を発揮したり仕事を通じて自己実現できたりするわけではありません。むしろ、資源や選択肢が限られている人ほど、その理想と現実のギャップに苦しみやすい。構造的な非対称性と不均衡から、社会の分断が生まれています。
滝口:そのような社会において、私たちはどのように感情や自己実現と向き合っていけばよいのでしょうか。
山田先生:なぜ社会が今の形になっているのかを一歩引いて考えてみることが手がかりになると思います。現代社会には、「自分で自分の機嫌を取れない人は未熟だ」とか「創造的で社会に役立つ仕事にこそ価値がある」という雰囲気があり、息苦しくなる人もいるかもしれません。近年のビジネス界では、EI(感情知能)が高い人ほど営業成績がよいとか、よい睡眠を取れば仕事も人生も充実するといった「実証研究」がよくあります。ここで注意しておきたいのは、「科学的知見」が道徳規範化するという点です。「である」と「べき」がシームレスになり、一定の方向性をもった人物像や行動が望ましいとされる現状があるとすれば、それを俯瞰し、その絡まりをほどく知識社会学的な作業も必要です。そして、なぜそのような規範や制度が社会に存在しているのかという背景や自分の現在地が分かれば、その中でどうやって生きていこうかと落ち着いて考えることにもつながるでしょう。そうした点で、社会の仕組みや構造、社会の成り立ちについて明らかにする社会学には、できることがあると思っています。
十河:貴重なお話をありがとうございました!